それは犯罪か、あるいは悩める人の救済か―「自殺幇助組織」ディグニタス
from The Guardian UK (via COURRiER Japon)
深く考えさせられる記事でした。

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平穏なスイスの片田舎に、ディグニタスという組織によって運営されている小ぎれいな部屋がある。
この場所では、「尊厳ある人生の終わり」を迎えるためのサービスが提供される。
つまり、自殺を手助けしてくれるサービスだ。
ディグニタスの提供するサービスは、決まった手続きを踏み料金を支払えば、“ちゃんと自殺できる”
というもの。まず会員になり、必要書類を送り、医師から致死薬が処方され、そして好きな人たちと
最期の時間を楽しんだ後、スタッフ立ち会いのもとビデオカメラの前で“自ら”薬を飲む。そして、
本人が自発的に薬を飲み“自殺”した様子が記録された後、警察や葬儀屋を手配するという流れだ。
ディグニタスでは、自殺に至るまでの過程で何度も本当に死にたいのか確認するそう。もちろん、
話し合ったうえで自殺を思い止まった事例はいくつもある。ただ、それでも望む人を“助ける”のだという。
薬を飲んで死に至るまで、苦痛はないらしい。
人生の最期を迎える部屋は、最低限の設備があり、陽光あふれる清潔な場所であるべきとして、
きちんと整えられている。

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ディグニタスの創設者として知られるルートヴィヒ・ミネリのもとに月に一度は、自国での死が許されず、
「死なせてくれ」と願う突然の訪問者があるという。もちろん、決まった手続きを踏まなければサービスは
提供されない。
ミネリは、何の知識もないのに自殺を試みて失敗し、その後に悲劇的な状況に陥る人々を嘆かわしく
思っている。また、施設などで強制的に生かされた挙句に孤独な最期を迎えるという現代の状況にも
疑問を抱いているようだ。
ミネリは問う。 「“道徳”とは何ですか?」
そして、非営利の「自殺幇助組織」ディグニタスでは、1998年の創設から1000人を超える人の自殺を
手助けしてきたそうだ。
そのひとつに立ち会ったスタッフが見た印象的な“最期”が紹介されていた。
「あるとき女性が娘を二人連れてきたことがありました。女性と娘たちの関係が良くないことは明らかで、
部屋の雰囲気は緊張していました。
しかし、その女性は薬を飲むと、すぐに娘たちを抱きかかえ、『愛しているからね。あなたたちは私が
この世でいちばん大切にしているものなんだから』 と言ったのです」
「女性が亡くなってから娘たちは、母親が彼女たちのことをあんな風に抱きしめたのは初めてだったと
語りました。私にとって、それは素晴らしい瞬間に思えました。亡くなった女性は自分の本当の気持ちを
伝えることに間に合ったのです」
人権や弁護士としての知識を持ち、天文学を愛好し、人の命の価値を知るミネリはこう言う。
「誰にでも 『自分の人生を終わりにする』 という権利があるはずです」

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賛否両論ある非常に難しいテーマだと思う。
ちなみにスイスの法律では、安楽死は許されていないが、自殺幇助は許されているという。
ただ、国のイメージと“自殺ツーリズム”の可能性が憂慮され、物議を醸しているそうだ。
自分の人生を終わりにする “義務” は誰にもないと思うが、
自分の人生を終わりにする “権利” は誰にでもあるのかもしれない...
この記事を読んで、そんなことを感じた。
別に悩んでいるわけでもなければ、宗教に目覚めたわけでもない。
この組織の活動に賛同するわけでもない。
ただ、日本では負のイメージでしかない“自殺”に対して、こうした捉え方もあるのかと。
人である以上無視できないこのようなテーマに触れたとき、
決して答えは出ないが、自分なりに考えてみようと思った。
自分にとって当たり前であることは、はたして“当たり前”なのか?
そんな視点も大切なのかもしれない。
自殺が人間の持つ権利だなんて考えたこともなかった。
この記事を読んで深く考えさせられた。
私自身も当時この記事を読んで衝撃を受け、ブログに投稿しました。
アクセス解析をたまに見ると、2010年の投稿にも関わらず、こんな個人のブログに、この記事だけずっとアクセスがあります。
ほぼ、「自殺」「自殺幇助」「自殺 スイス」などの検索ワードで入ってきています。
おそらく、自殺に関心のあるひとが日本には多く存在しているのかもしれません。
決して肯定することはできませんが、こうした事実、こうした考え方を知ることも、大切だと思っています。
もちろん、たくさんの規則が必要になると思いますが
人は寿命を全うすべきだ
生きたくても死んだ人に失礼だとか
綺麗事では解決しないことが山のようにある